熱帯夜とミネストローネ
「熱帯夜というか、夜になっても背中にじんわり汗をかくような季節の始まる夜ってチャットモンチーが最高に合わない?」
「分からなくもないけど、それはきっとあなたの胸が大きくないからだよ。谷間に汗をかくと、そんな気分は一切なくなる。」
「そうなの?どうして?」
「わからないの?」
彼女は続けた。「チャットモンチーの音楽に谷間の汗は含まれていないから」
「それはえっちゃんが胸の小さな女の子だから?」
「うーん、少し違う。えっちゃんが、貧乳のコンプレックスも可愛さも全部含んでいるから。なんと表現すればいいのか難しいのだけれど、彼女は貧乳のイコンのようなものなの。」
「分かるような気がする。"胸が控えめ"で"バンド音楽" をしていて、10年代前半において象徴的なバンド女子だっと思う。ぼくもそれを理想的に可愛らしいと感じていて、彼女のような女の子が好きな時期があった。そういう人って多いんじゃないかな。」
彼女は間違いなくそういうタイプの女ではない。
「うん、とりわけ私たちの学生時代にはね。」
でも彼女はそのひとりだった。
(事実ぼくは、高校時代、ダサいTシャツにスカートを履いてライブをして、汗でぴったりとTシャツが張り付いた背中にブラジャーホックが浮かぶ女の子に好意を持っていた。もちろん華奢で貧乳だった。
女子校で校則が厳しくてそれでも控えめに髪を茶色く染めている、背の低い色白がタイプだった。男子校のぼくにとってとても女の子的だった。)
「ひとつ思ったんだけど、チャットモンチーがいいと思うのはぼくが谷間の汗について知らないからだとして。それはつまり、ぼくに大きなおっぱいが無いことだけじゃなく、ぼくが童貞であることも関係あるのかな。」
「そうなんじゃない?私は童貞だったことなんてないもの。分からないよ。」
それはそうだ、とぼくは思った。なんて幸せなんだ、とも思った。
:こんな話を、以前胸の大きな友達とした。快晴の7月、期末試験の後。池袋。馬鹿みたいに飲んで、それでも飲み足りず彼女の家で飲み直した。彼女の家に向かう途中スーパーで買い物をした。ぼくがカートを押して、彼女が必要なものをあれこれカゴに入れた。トマト・玉ねぎ・鶏肉・バター・チーズ・ヨーグルト。
酒のアテとぼくの大好きなミネストローネを作ってくれたのを覚えてる。それ以外はあまり覚えていない。飲みすぎた。
そのせいか、チャットモンチーを聴くと胸の谷間とミネストローネを思い出す。ミネストローネはとても酸っぱかった。解散か、さみしいな。まだまだ聴き続けると思う。
☆☆☆
「ところで、こういう、夜になっても昼の熱気が空気の中に含まれてるような感覚は、たしかに夏を感じさせてくれるね。でもさ、そうした強い夏の中にも、熱を追い出して、空気が涼しさを持つ時間帯っていうのも存在しない?たとえば今、午前3時。」
「そうだね、たしかに。涼しい。」
ぼくらはベランダで並んでタバコを吸っている。
「こういう瞬間にこそ夏を感じない?つまり、昼の暑さじゃなく夜中の涼しさに。」
「うん、わかる。この時間がおれは好きだし、それになんだって出来そうな気がしてくる。」
「なんでもって、たとえば?」
「今年こそは、ビキニの女の子と海に行けるかもしれない。」
「がんばれ」無理だと言うように彼女は笑った。
秋になっても、チャットモンチーは変わらなかった。
それを聴くぼくにも変化はなかった。
ビキニも、谷間の汗も知らないままだった。