夏の果実

  ぼくの会社の盛岡支社では、「早帰りを促す」という目的をもった簡単なメールを個々人が作成し全体発信するという、ちょっとした取り組みがあります。質の低いメールマガジンのようなものです。誰も内容に期待なんかしていない。上役の人も読むことがある、それだけのものです。

 

 計算上はおよそ半年に一度自分の番が回ってきます。

 

 以下は、ぼくがそこに載せて、課長に軽く咎められた文章です。死んだ文章。墓だけでも建てさせてください。

 

 

(ふざけてもないし、仮にふざけているとしたら面白くもなんともないのに、なにがいけなかったのでしょう。。。)

 

 

 

 

 

 

 盛岡の夏はとても短い。と聞きます。

 

 7月の下旬から思い出したように夏らしく暑くなり、8月の頭がピーク。それを過ぎると、あっという間に秋が来るらしいですね。

 

 事実、日曜に岩手に帰ってきて、眠り、月曜日の窓を開けると、冷たい空気が部屋に入ってきました。山あいの小さな温泉宿で迎えた旅行3日目の朝、みたいな冷たさ。

 「うわ〜仕事かあ、やだなあ」というぼくの思いは一層強くなりました。「夏休み、終わっちゃったなあ」。

 

なんとか仕事を終えて会社を出ると、夕暮れもなんだか涼しい。夏が通り過ぎてしまったような気がします。

 

 とぼとぼと帰り道、クロステラスで桃を見つけました。

 

夏の果実だ! すぐさま買いました。

右手の桃は、産毛が心地よく、固くて少し柔らかくて、いい匂いがして、グラデーションピンクと健康的な白色をしています。持ってるだけで楽しくなってきました。

 気持ちいい帰り道です。ワクワクしてきました。夕焼け空も、カーブミラーもアスファルトもすべてが夏的に見えてきました。夏はまだ終わってません。

 

 ただ持ってるだけでなんだか楽しいし、そのうえ食べてみれば最高に美味しいし、最高です桃。

 

みなさんも、夏が終わる前にぜひ桃を買ってみてください。早く帰らないと売り切れちゃいますよ!

 

悲劇

 

「悲劇」と聞いて何を思い浮かべるだろう?

 

 たとえばシェイクスピア。『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王

 

あるいは奇跡なんて答えもあるかな。たしかに奇跡は常に悲劇からの脱出・解決として語られるよね。

 

 でも今回ぼくがここでするのは、もう少し身近な話。それは世界中で普遍的に起きてる話でもあるし、一方で当事者ひとりひとりにとってはとてもとても大きなインパクトを持つ話。失恋とダイエットについてのお話です。

 

 それでは、ぼくが気づいた悲劇について、OLを例にとってお話しますね。色々と考えてみたんだけど、これが一番分かりやすいかなって。だって彼女たちは失恋とダイエットをするよね、それはまるで遺伝子でそう設計されているかのように。

 

 

 一般に、OLはダイエットと失恋をしますね。もちろん、その前段階として彼女たちは自分の体をストイックに見つめなおして満足いかなかったり、「きっとこの人と結婚するんだろうな」なんてなんとなく思っていた恋人と決定的な不和に陥ります。

 とにかく、彼女たちはある日、それぞれの理由や動機で、自分の体を突然ストイックに見つめたり彼との関係にヒビを見つけたりします。

 

 

 

(、、、失恋とダイエットは並行に話せばよかったですね。交差に話すととても分かりづらいし話しづらい。。)

 

 

 

 とにかく!彼女たちはある日、それぞれの動機でダイエットを始めるわけです。彼女はカレンダーにブルーブラックインキのボールペンで『ダイエット開始!!夏までに〇kg!』と書き込みます。ルミネにワンサイズ細いデニムと可愛い水着を見に行ったりもするでしょう。やっぱり今の私には合わないわ。3ヶ月後の私ならどうかしら?半年後の私はどうなってるだろう?ほっそりとした顔で笑えているかしら。美しい二の腕は太陽の下で光り輝いているといいな。スラリとした脚でヒールを鳴らせば、それを聞いたサチモスはすぐさま新曲を思いついてしまうんじゃないかしら。

 

 

 さて、ここが悲劇の一幕目です。いま彼女の頭の中にはダイエットが成功するイメージしかないのです。彼女は忘れています、ダイエットには失敗の可能性もあるのです。

 

 もちろん、なにも最初から失敗すると思ってダイエットを始める人はいません。でもそうやって張り切って始めた人の、いったい何割が成功するのでしょう。

 少しずつ悲劇が見えてきたでしょうか。世界で/日本で/京王線沿いの築年数の若いオートロックマンションの一室で、日々/いまこの瞬間にも、一人の/何千何万ものOLがダイエットに失敗しているのです。

 

 ほらまた一人、、二人、、、。

 

 

 

成功/失敗とコインの裏表のように言うと、

成功・失敗は二元のストカスティックな選択肢みたいに聞こえるけど、そういうものではないです。いたずらに試行回数を増やせばその内成功するというものではないです。そもそも、ダイエットは大抵失敗するでしょ。

 

 これはもう、最初から決まってるんです。成功する人は、決意したその瞬間から成功の側に足を置いてるんです。「成功」行きの電車のステップを踏み越えているんです。

 

 

 恋愛も一緒です。いま成功する人は、失恋するような人とそもそも付き合わないんです。

「成功」する人は、最初から「成功」行きの電車に乗るんです。途中乗り換えはありません。

どれだけ早く階段を駆け下り、どれだけ懸命に閉まりかけのドアをこじ開けても、あなたが乗った電車は残念、「失敗」行きなんです。向かいのホームに停まる「成功」行きを歯ぎしりしながら眺めているしかないのです。

 

 

 もちろん、ぼくはダイエットも恋も、その営為を否定はしません。ダイエットに成功した方にはおめでとうと言ってやりたい。彼女たちはとても頑張ったし、その努力に見合うだけの結果を得られたのです。恋も同じです。

 

 

 でも実際、多くのダイエットは失敗します。多くの恋は失われます。誰もが成功と幸せを夢見て始めるのに。これが悲劇です。内包された悲劇。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

「少し今年の夏は暑すぎない?こんなに暑くて地球のヒューズは飛ばないのかしら。。」

タバコ片手にOLが言います。

その声に目線を向けると、それはぼくの隣の席に座る魅力的な女性でした。

肩口にストンと落ちたブラウンヘア、薄い色の口紅、意思力の強いヒールパンプスの音を鳴らす、凛としたOLです。

 

「どうだろう、地球のヒューズの心配をしたことはないんだ」

 

ぼくらは、駅前と中心街の間を裂くように流れる川のほとりにいた。川面には月や街灯や、どこかのビルの明かりが混ざり合い、匿名性を手にした光が揺らいでいた。

 

彼女は最近、付き合っていた彼と別れ、スポーツジムに通い出しテロイズムみたいに盲目的に体を動かしている。

 

「わたし変われるのかな。」

「君は変わらないよ。変わる必要なんてない」

 

 

ええ。多くのOLは変わる必要なんてないんです。ダイエットなんてしたって、どうせ失敗するんです。あるいは男と別れたとしても、それはそれだけのことなんです。

 

  OLのみなさん、ダイエットなんてやめましょうよ。そして成功する恋をしましょう。周りを見てください。いい男ではないけれど、でも素直な男がいますよ。金も稼ぎます。「成功」行きかもしれませんよ。

全と一 、一と全

 

 ちょうど一年前明日香が留学に出た。そして今、留学経験を武器に就職活動を行い黒星を重ね続けている。バンクーバーから見る星は黒いのでしょうか。実際、工場排気で空は暗いらしいのだけど。

 

何度でも言うけど、就職面接でいたずらに留学を武器にする学生をぼくは蔑んでいる。そのための文章を残しておこうかな。

 

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熊谷守一という画家がいて、この人はある時期から病気のために家から外へ出られず、庭に植えた草木やら、庭に来る小動物を眺めたり、それらの絵を描いたりして暮らしていたという。その熊谷守一が庭を歩いている蟻をずーっと見ていて、ふとあることを発見した。止まっている蟻が歩き出すとき、まず右側の真ん中の足から歩き出すというのだ。(正確には覚えていないが確か「右側の真ん中」だったと思う。)このことを何かの本で初めて読んだとき、非常に驚いた。

 どの蟻もまったく同じ順序で足を動かすという事実(といっても、ぼくはまだそれを確かめていないから「事実」といっていいのかどうかわからないのだが)もさることながら、そういうことを発見したということに驚いたのである。

 暇人といえばそれまでだが、そういうことを発見できるということは、「いったい蟻というものは、6本の足のどの足から歩き始めるのだろうか?」という疑問を熊谷翁が持ったということだ。そのような「疑問=意識」を持たない限り、絶対に、そう絶対にそういう「発見」はできない。漫然とただ蟻を眺めていただけでは、そういう蟻の足の動きは目に入らないのだ。事実、ぼくは子どものころから、何度蟻の行列を眺めてきたかしれないが、一度として蟻が「右側の真ん中」の足から歩きはじめたのを見たことがない。

 「限られた一が、そのまま無限の全体であることに、気がつかなくてはならぬ。」と鈴木大拙は『東洋的な見方』という本の中で言っている。「蟻」がそのまま「無限の宇宙」だということだ。

 海外に出かけることも、庭を眺めることも、実は同じことだということ、これほど忘れられている思想は少ない。

 

以上

 

 

熱帯夜とミネストローネ

 

「熱帯夜というか、夜になっても背中にじんわり汗をかくような季節の始まる夜ってチャットモンチーが最高に合わない?」

 

「分からなくもないけど、それはきっとあなたの胸が大きくないからだよ。谷間に汗をかくと、そんな気分は一切なくなる。」

 

「そうなの?どうして?」

 

「わからないの?」

 

彼女は続けた。「チャットモンチーの音楽に谷間の汗は含まれていないから」

 

「それはえっちゃんが胸の小さな女の子だから?」

 

「うーん、少し違う。えっちゃんが、貧乳のコンプレックスも可愛さも全部含んでいるから。なんと表現すればいいのか難しいのだけれど、彼女は貧乳のイコンのようなものなの。」

 

「分かるような気がする。"胸が控えめ"で"バンド音楽" をしていて、10年代前半において象徴的なバンド女子だっと思う。ぼくもそれを理想的に可愛らしいと感じていて、彼女のような女の子が好きな時期があった。そういう人って多いんじゃないかな。」

彼女は間違いなくそういうタイプの女ではない。

 

「うん、とりわけ私たちの学生時代にはね。」

 でも彼女はそのひとりだった。

 

(事実ぼくは、高校時代、ダサいTシャツにスカートを履いてライブをして、汗でぴったりとTシャツが張り付いた背中にブラジャーホックが浮かぶ女の子に好意を持っていた。もちろん華奢で貧乳だった。

女子校で校則が厳しくてそれでも控えめに髪を茶色く染めている、背の低い色白がタイプだった。男子校のぼくにとってとても女の子的だった。)

 

「ひとつ思ったんだけど、チャットモンチーがいいと思うのはぼくが谷間の汗について知らないからだとして。それはつまり、ぼくに大きなおっぱいが無いことだけじゃなく、ぼくが童貞であることも関係あるのかな。」

 

「そうなんじゃない?私は童貞だったことなんてないもの。分からないよ。」

 

それはそうだ、とぼくは思った。なんて幸せなんだ、とも思った。

 

 

:こんな話を、以前胸の大きな友達とした。快晴の7月、期末試験の後。池袋。馬鹿みたいに飲んで、それでも飲み足りず彼女の家で飲み直した。彼女の家に向かう途中スーパーで買い物をした。ぼくがカートを押して、彼女が必要なものをあれこれカゴに入れた。トマト・玉ねぎ・鶏肉・バター・チーズ・ヨーグルト。

酒のアテとぼくの大好きなミネストローネを作ってくれたのを覚えてる。それ以外はあまり覚えていない。飲みすぎた。

そのせいか、チャットモンチーを聴くと胸の谷間とミネストローネを思い出す。ミネストローネはとても酸っぱかった。解散か、さみしいな。まだまだ聴き続けると思う。

 

☆☆☆

 

 「ところで、こういう、夜になっても昼の熱気が空気の中に含まれてるような感覚は、たしかに夏を感じさせてくれるね。でもさ、そうした強い夏の中にも、熱を追い出して、空気が涼しさを持つ時間帯っていうのも存在しない?たとえば今、午前3時。」

 

「そうだね、たしかに。涼しい。」

 

ぼくらはベランダで並んでタバコを吸っている。

 

「こういう瞬間にこそ夏を感じない?つまり、昼の暑さじゃなく夜中の涼しさに。」

 

「うん、わかる。この時間がおれは好きだし、それになんだって出来そうな気がしてくる。」

 

「なんでもって、たとえば?」

 

「今年こそは、ビキニの女の子と海に行けるかもしれない。」

 

「がんばれ」無理だと言うように彼女は笑った。

 

 

 

 

 秋になっても、チャットモンチーは変わらなかった。

それを聴くぼくにも変化はなかった。

ビキニも、谷間の汗も知らないままだった。

 

 

 

 

 

マジック・リアリズム

「夢も希望も、前向きな絶望に他ならないよ」かつて僕のおちんちんはそう言い放った。僕はそれに概ね同意したし、以来少なくとも彼に向かっては、握ると砕けて砂になるような現実的な言葉だけを口にした。そして彼もそんな僕の現実的な手に触れられると心地好さそうにしていた。僕らはいつも一緒にいたし、そうした関係はこの先もずっと続いていくものだと思っていた。正確には、それが終わるなんて考えてもみなかった。
 今朝、彼が姿を消したその時までは。
二段ベッドを転げ落ちて、机の上に目をやると、冷めたコーヒーと共に数枚の便箋が置いてあった。
「最も近しい他人へ」
彼らしい丁寧な字で、しかしそこには夢が綴られていた。
 『まずは突然の別れを詫びたい。すまない。これは決して、君と一緒にいることに困難を感じたわけでも、このまま一緒にいたら僕が幸せになれないからという訳でもないんだ。お互いのためにこうすることが一番だったからなんだ。
僕にはずっと夢があったんだ。そしてそれは君もそうだったでしょう? 君はいつかの僕の言葉を覚えていて、それを表には出さなかったけれど、僕にはそれが分かるんだ。何故なら僕は君で、君は僕なんだから。
 そう、僕らには夢がある。それは一人の魅力的な女性のカタチをしている。背の低い、カールがかかったショートヘアの女性だ。そうだろう?彼女は僕らと同じでビートルズのアルバムの中では「ラバーソウル」が一番気に入っていて、英米文学とフランス映画が好きだ。そして僕らは彼女と空が落ちるような恋がしたい。そうだろう?短編小説を読んで、映画を観て、あれこれと言い合いたい。思いつきで車を走らせてぼんやりと星を眺めたい、しかし意外と星が見えない。でもこれはこれでいいよねなんて言って、いいえ全然よくないわ、なんて言われて笑い合いたい。真夏のオリーブ畑で甘い恋愛映画みたいなことをして、まるで甘い恋愛映画みたいだね、なんて言いたい。そうだろう?
 だから僕は、僕らにとっての夢の女の子を、現実に見つけに行く。夢は前進のエネルギーだ。そうだろう?』

 そうだ。僕らには夢がある。そう呟いて、僕はすっかり冷たくなったコーヒーを一口で飲んだ。そして落ち着かない気持ちでパンツを履き、スラックスを履き、シャツを着てジャケットとロングコートを羽織り、まだ見ぬ女性の影を求めて街へ飛び出した。

 


……そうなんです。これがマジック・リアリズムなんです。こんなガチガチの童貞の理想的な女性像の話なんて、リアリズムで書かれたら、書いた者も読んだ人も気持ち悪いと感じます。そんな悲劇を生み出さないのがマジック・リアリズムなんです。世界にはマジック・リアリズムでないと伝わらない言葉があるんです。

 

  それでは今夜はこの曲と小説を紹介してお別れしたいと思います。ビリー・ジョエルで「ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー」。
ガルシア・マルケスで「百年の孤独」。
おやすみなさい。よい夢を。